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果てしなく美しい日本 ドナルド・キーン著 読後感

 

「果てしなく美しい日本」

ドナルド・キーン著 読後感

ドナルド・キーン氏は1922年(大正11年)ニューヨーク生まれ、18歳の時にアーサー・ウェイリ―翻訳の『源氏物語』に感動した。このように素晴らしい物語は世界のどこにもないと氏は言う。戦時中は従軍し日本兵が戦地に残した日記を翻訳した。2012年3月日本国籍を取得し、日本人となった。

〇「生きている日本」はちょうど私が生まれたころの日本を表している。この本は元々日本人に向けて書かれたものではなく英文で書かれたものであったようだ。それまでの日本がどのような国であったか、様々な研究により明らかにされている。

日本の文化は徳川時代の250年に及ぶ鎖国によって醸造されたと言ってよい。

それがその後の開国に始まる明治維新と2度に渡る大戦により、海外にさらされることとなった。

〇16世紀の初め、フランシスコ・ザビエルは日本の征服を思いながらキリスト教の布教にやって来た。しかし「日本人は我々によく似ている国民である。同じ程度の文化を有する国民である。」と言った。そう簡単にはいかないことを悟った。実際文化の水準は、ヨーロッパ文化の水準より高かったとドナルド・キーン氏は言う。確かに布教により熱烈な信者を生んだけれど、現在の信者の数は日本人口の0.5%程度と言われている。やはり神道、仏教が私たちの肌には会うのかもしれない。

〇食事についても同じようなことが言えるかもしれない。今や日本に居ながらにして世界中の食事が食べられるようになった。しかしそれらは時々食べたくなる多くの種類の中の一つで、やはり食事の中心は和食になっている。

〇その後1823年1829年まで長崎の出島にドイツ人のシーボルトが滞在し美術工芸品ばかりではなく動物や植物まで持ち帰り広めている。

日本の伝統建築の簡素な線は、海外の建物の外観ばかりか、その中に住む人々の生活に影響を与えたという。「簡素に美あり」(less is more)簡素さを好む思想は日本文化の基礎である。

〇開国の後、日本は西洋化を急ぎ、国宝級の美術工芸品も海外に流出した。実際、伝統的な日本はほとんど影も形もなくなってしまうのではないかと考えた外国人もいた。だが、彼らは、日本人が過去を保持する驚くべき能力を持っていることを忘れていたのだった。と続く。

〇諸外国へ渡った国宝級の美術工芸品は日本のすばらしさを伝えることになり一級品であったことが良かったとキーン氏は肯定的にとらえている。そして日本の文化はヨーロッパに大きな影響を与えてきたことを再認識した。

〇明治時代、鹿鳴館は文明開化の象徴として1883年(明治16年7月7日)に建てられた。設計はジョサイヤ・コンドル。その当時日本各地で西洋建築が建てられ、西洋化がすすめられた。その主な技術者となったのが「お雇い外国人」と言われる人たちで、数千人のヨーロッパ、アメリカ人がやって来た。宇都宮に建つ松が峰教会は1932年(昭和7年)マックス・ヒンデルの設計によって建てられた.(栃木の建築文化 カトリック松が峰教会 岡田義治先生著より)

〇鹿鳴館では連日連夜ヨーロッパから輸入された衣装に身をまとった日本の紳士淑女が舞踏会や晩さん会を開き日本が文明国の仲間入りをしたことをアピールした。しかし。その反応は日本人が期待していたものとは違ったものであったと、ドナルド・キーンは書いている。「日本人はマネが上手だ」「サルまねの国」その様な評価を招いてしまった。これは取りも直さず日本には素晴らしい文化のある国なのに、どうしてヨーロッパの真似をする必要があるのだ。ということの裏返しであったような気がする。しかし当時日本には経済力と軍事力がなかったことは確かだ。そのため文化はさておき、追いつき追い越せという方向に走ったのかもしれない。そして国際化とは相手が振舞うように、振舞うのではなく、日本の文化や歴史を知り日本人らしく振舞うこと。アイデンティティーを持つことにやっと日本人は気付いたような気がする。

〇キーン氏の言う通り、日本人は新しいもの好きで何でも受け入れて来たけれど、根本的なところを容易には変えることのない民族なのかもしれない。そして世界の文化が将来どのような道を歩むにしろ、日本が主要な貢献することは間違いないとキーン氏は結んでいる。